Kiichiro Yanagitani 写真家&編集者 柳谷杞一郎 紀一郎

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[WPM]開催

ちょっと忙しいとキーボードをまったく叩かなくなるのが僕の悪い癖である。

またまた、しばらく更新を怠ってしまった。

本当はイベントがある前に、こんなイベントをやりますよ、と告知をすべきなのにね。

3月21日、22日と2日間、松濤スタジオで、「WPM」(WikiphotoPostcardMarket)が開催された。

Wikiphotoは写真の学校、在校生、卒業生による写真を愉しむためのコミュニティ組織。卒業後も学校とまったく縁がなくなるのは、寂しいからときどき集まって写真にまつわるなにかで楽しもうよ、というわけだ。

「WPM」は、みんなが撮った写真を展示。その写真をポストカードにして販売するというイベントである。

写真を売ったり、買ったりということを日常的な習慣にできればいいな、という試みだ

写真が売れるとすごく嬉しいという体験を少しでも多くの人に味わってほしかった。

そのためには他人の写真を買ってあげるという習慣もできなくちゃいけない。

2日間で200数十枚のポストカードが売れた。

松濤スタジオは天井高6メートル。天井高がある空間は気持ちいい。

そこにたくさんの写真が並んでいるのも気持ちいい。

なんだか楽しい2日間だった。(2014.03.27)

お弁当ランド

 

 

 

 

雷鳥社では、毎月月初めに書店さんに向けて「らいちょうしゃ通信」をFAXする。

雷鳥社の出版物に関連するテーマを毎月ひとつ取り上げ、雷鳥社のスタッフがテーマにそって自身の思いを綴るというものだ。

雷鳥社のスタッフに親しみを持ってもらうとともに、出版物を売り込もうという作戦である。

2月のテーマは「お弁当の思い出」。

2012年に発売した「OBENTO WONDERLAND~112人のしあわせお弁当図鑑」のプロモーションである。

この写真集も「写真の学校/東京写真学園」の生徒たちと僕とでつくった。

参加者が10人しかいなかったので、一人平均11人を撮影した力作である。

初版売り切れまであとちょっと。売れてくれるといいなあ。

 

ところで、「らいちょうしゃ通信」に掲載する僕の「お弁当の思い出」は以下のとおり。

 

小学校卒業時、身長145センチ、体重32キロ。

クラスで2番目に小さかった僕は中学でバレーボール部に入る。

食の細かった僕が運動部に入ったとたん、とんでもない大食漢に変身した。

バカでかい弁当箱、まさにドカベンに詰め込まれた大量のごはん(大したオカズが入っていた記憶はない。中身の思い出は大量のごはんばかりである)を

2時間目と3時間目の休み時間には食べ終え、

昼休みには学食のカレーライス大盛りを平らげ、

練習後は広島名物お好み焼きそばダブルをやっつけ、夕飯も普通以上に食べていた。

小さな僕が持参するあまりに大きな弁当箱に、同級生はみんな驚いていた。

それでも中学卒業時に肥満体になったりはしなかった。

身長172センチ、体重50キロ。正直情けないくらいにガリガリである。

56歳の今、身長はそのまま。食は圧倒的に細くなったというのに体重は1.5倍近い。

「歳をとり新陳代謝が衰えるということは、げに恐ろしい」

 

取材交渉能力

最近の「写真の学校」の写真集づくりは、少々事情が変わってきている。

生徒たちの多くは、なにがなんでも商業カメラマンとして成功するという気持ちがない。

 

「写真の学校」での写真集づくりは、生徒たちに企画立案能力、取材交渉能力を身につけさせたいという狙いもあるのだが、かなりの生徒たちがそれをのぞまない。

 

商業カメラマンとしての成功ではなく、アーティストとしての成功を夢見ているからだ。

 

マスコミ相手に熾烈な戦いをしていくよりも、シロウト相手に楽な気持ちで仕事をしていきたいらしい。

 

「それだと楽かもしれないけれど経済的には恵まれない可能性が高いけど、いいの?」と訊くと、迷いなく「お金はいいんです」と答える生徒が多いのだ。

 

僕自身は、安定していた編集者としての仕事を捨て、カメラマンで食べていく決心をしたのが33歳のときである。すでに養っていかなければならない家族がいた。

 

「お金のことはいいんです」と言える立場ではない。編集者時代よりも稼がなければならない、という強い決意を持ってスタートした。

 

取材交渉能力と近い営業・プロモーション能力がフリーのカメラマンとしての成功の条件である。

 

もともと取材が楽しいと思っていたから、編集者になったのだ。

 

あたらしいもの、興味深いもの、魅力的なもの、に出会える喜びこそ編集者の醍醐味のひとつである。

 

でも、あたらしいもの、興味深いもの、魅力的なものが、なにもしないでいても目の前に現れてくれるわけではない。そのための下準備こそが取材交渉なのだ。

 

フリーで生きていくためには編集者だけでなく、カメラマンにとっても取材交渉能力は極めて重要である。

 

しかしながら、今多くの若者は取材交渉を含むすべての交渉事が嫌いである。

 

というわけで、最近の「写真の学校」の写真集づくりは困難をきわめているのだ。

 

で、「ぼくたちの論語」は取材をともなわない写真集になったというわけである。

 

取材をともなう写真集作りの現場の顛末についてはまた次回。

 

(2014.01.15)

 

 

なぜ写真集をつくるのか

「写真の学校」で、実際に書店で売られる写真集をつくる理由はふたつ。

ひとつは、生徒の撮影技術の向上。もうひとつはプロモーションである。

 

撮影技術の向上というのは、単にライティングとか、スタイリングとか、レンズワークということだけじゃなく、企画提案能力、取材依頼・交渉能力、肖像権など権利関係の知識を高めるということも含んでいる。

 

プロモーションは、生徒たちがカメラマンとして世に出るための一助となろうという考えである。多くの写真学校は卒業写真展とかを開くのだろうが、学生の開催する写真展に仕事先となるマスコミ関係者に足を運ばせるのは簡単ではない。

 

相当話題性のある題材をタイムリーに取り上げればいけないのだが、生徒たちの撮影対象を話題性のあるものに絞り、短時間であるレベル以上の作品に仕上げることは難しい。

だから、「写真の学校」では、写真集をつくるのだ。話題性のあるもの、必要性のあるものを時間をかけてつくればいい。

 

あるテーマを一人のカメラマンが10年かけて追っかけるというモノのつくり方もあるが、100人のカメラマンが1年追っかけるモノづくりもあるのである。これなら、多少の技術・経験不足を補うこともできるではないか。

 

しかもマスコミ関係者に写真展会場に足を運ばせるより、写真集を受け取ってもらう方がはるかに簡単だ。送られてきた出版物に目を通すこともなく、ゴミ箱に投げ込むというはなかなかできるものではない。

 

そのうえ、写真集はその作り方さえ間違わなければ、全国の書店の棚に並べられることになる。これは、カメラマンの営業用パンフレットが書店の棚に並べられるのとイコールなのである。しかも、写真集が魅力的であれば、そのパンフレットはお金を出して買ってもらえるのだ。

 

こんな効果的なプロモーション活動が他にあるだろうか。

 

「ぼくたちの論語」も、「写真の学校」の写真集のひとつだが、最近少々事情が変わってきている。

この続きはまた。(2014.01.09)

 

 

ぼくたちの論語

論語カバー画像

日本にひとつくらい「プロの使う機材、プロの使うスタジオ、プロの使うスタッフとともに撮影実習を

徹底的に行う学校」があってもいいではないかという思いで「写真の学校/東京写真学園」は12年

前に渋谷駅前に設立された。

松濤スタジオにやってくる就職希望の学生たちは、90%以上がスタジオでの撮影経験がない。つ

まりは機材が扱えないし、撮影セットがつくれない。撮影を仕事にしていくためにはスタジオでのラ

イティングの勉強が必須だと先生や先輩から教えてもらい、なにがなんだかわからないまま、ス

タジオでの就職を希望しているだけである。彼らは知識・経験がないだけでなく、スタジオでの撮影を

自分の仕事にするという覚悟もない。

スタジオはサービスを提供するところであって、学校ではない(もちろん、結果として仕事が勉強な

ることは多々あるが)。で、「写真の学校/東京写真学園」の設立に至ったというわけだ。なにしろプ

ロの撮影現場である、松濤スタジオが教育プログラムをつくったのである。これ以上実践的な学校は他には

あるまい、と自負している。開校後、ほどなく数多くの卒業生がプロとして活躍するようになったの

は、当然といえば当然の結果なのだ。

その学校で開校以来、「プロの使う機材、プロの使うスタジオ、プロの使うスタッフとともに撮影実

習を徹底的に行う」ということと並行して続けていることがもうひとつある。

「実際に書店で発売される出版物にプロカメラマンとして在学中に参加する」ということだ。

2002年に「CORNERS」、03年に「東京築地」、05年に「東京職人」、08年に「東京町工場」など

いずれも話題の写真集として世に受け入れてもらえた。特に07年から12年まで刊行された「フォ

トサプリ」シリーズは累計26刷、7万部に及んでいる。在学中の学生が撮影した写真集の結果で

ある。自画自賛するけれど、これは奇跡といってもいい。

「ぼくたちの論語」は、この「写真の学校」の生徒とともにつくった写真集の最新刊である。

写真は写真の学校卒業生、論語の訳注は僕が担当した。

どうして、こんな本を作ることになったか、を書こうと思ったら時間切れになってしまった。

この続きはまた後日。

(2014.01.08)

 

死にかけたこと

3年間ホームページ更新をしなかった間に起きたことの中で、最大の事件は、残念ながら仕事上のことではなく、

交通事故で死にかけたことだ。

2011年4月、自転車で帰宅中、タクシーの右扉になぎ倒された。

決して、前方不注意で開いていた扉に激突したのではない。

タクシーの横を通過中、突然勢いよく開いた扉になぎ倒されたのである。

人生どこに不幸が転がっているかわからない。脳挫傷、外傷性くも膜下出血で意識不明となった。

幸い脳内の出血は自然に止まり、頭がい骨に穴を開ける手術はしないですんだ。

入院直後は、寝返りをうっただけで、嘔吐を繰り返していたので、

オレの人生もここまでか、などと思ったりもしたのだが、案外悪運は強かった。

10日ほどで、ほぼ元気になってしまい、15日目には退院できたのだ。

ただ、現時点でも回転する遊具(たとえば回転木馬)に乗ったり、アルコールを摂取すると、しばらく立ちあがれなくなる。

寝ころぶたびに小さな眩暈が起こる。つまりは完全にもとのカラダに戻ったとは思えない。

それでも今はテニスもできるし、ゴルフもできる。なにより事故直後は怖くて乗れなかった自転車にも最近乗れるようにもなった。

しかしながら、1番の問題は仕事に対する意欲ということになる(一時はすべての仕事からの引退を考えた)。

大きな怪我は人の気力を削ぐし、弱気にさせる(ただオレが弱いだけかもしれないが)。

そうはいっても中小零細企業の社長である僕が今すぐに仕事を投げ出すわけにはいかない。

小さいとはいえ、50人近いスタッフを抱えている。

いくつかの学校の代表も務めているから講師をしていただいている方々も加えれば200名を超える人々との関係がある。

生徒のことを考えれば1,000名を超える人たちとの繋がりかあるのだ。

もう少し頑張るしかないという思いが3年ぶりのホームページの更新を思い立たせてくれたのかもしれない。

そういえば、中学、高校、予備校、大学、マスコミでの仕事とずっと同じ道を歩いてきた神足裕司の出版記念パーティが

先々週行われた。最新刊「一度、死んでみましたが」が上梓されたのだ。

神足裕司もくも膜下出血で倒れていた。

一時は再起は難しいのではないかと考えられていたのだが、クルマ椅子生活ながら見事に復帰を果たしたのだ。

テニスボールを追いかけられるオレが負けているわけにはいかない。

オレも、久しぶりの新刊「ぼくたちの論語」を上梓したのだ。

四六判400ページ(カラー160ページ)で、なんと1,100円。

一家に一冊の愛蔵版がキャッチフレーズだ。この本の詳細については、また来年。(2013.12.27)

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柳谷杞一郎

Kiichiro Yanagitani

1957年広島生まれ。写真家&編集者。続きを読む...

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